仏神案内 鬼子母神「感応 生鬼子母神」

感応 生鬼子母神 御縁起

謹み敬って、大日本帝國下總國東葛飾郡大柏村大野光胤山本光寺に勧請し奉る。
感応生鬼子母神御傳来の起源に付き、古伝の記録を按ずるに、武州麾下萩原清久夫人、某の随身霊像也。夫人、一朝故なくして癩病に罹り、一家、大に之を異しむ。因て、醫薬を百方に盡すと雖も、更に其驗無し。茲に於て、諸宗の僧を招き祈禱を請ふ。然るに、病、愈々甚だし。五体、色を變じ、恰も腐果の如し。顔肉、朽ち落ち、濃血、滴る。親戚、皆、遠かり。家臣、敢て近く者なし。唯た母君、大に之を患ふ。寝食、共に廃す。
遂に、之が為めに眼病を感じ、忽ち明を失ふ。母君、大に慨て曰く「何ぞ圖らん。一患、末だ去らざるに、更に又、一患を重ねんとは。」と。
卜者を以て占せしむ。卜者、乃ち法華宗に鬼子母神と云ふ神あり。之に就きて祈らば、病、必ず治せん。茲に於て、始て我宗の某寺に詣り、鬼子母神に祈誓すること一七日、竒なる哉。両眼、故の如く治癒す。母君、此現證を感じ、喜ぶ事、甚し。倐惣に改宗し、且、夫人に謂って曰く「我れ嚮に、汝の癩病を視て大に驚き、日夜、湯薬に侍して眠らず。之が為に眼病を感じ、明を失ふ。両病患ひ重り如何せん。」と。卜者の言に隨ひ、鬼子母神に祈誓すること一七日、竒なる哉。期願、未た満たざるに、両眼、故の如く治す。是に由て、之を観れば汝が病、治せんこと必せり矣。然ば、汝、今より法華宗に改宗し、信心強盛に南無妙法蓮華経を唱へて、鬼子母神を祈り奉らば、汝が病、治せんこと疑ひなし。汝、夫れ諸を最めよ。我、嘗て之を聞けり。夫れ鬼子母神と申すは、往昔、中天笠に善見長者あり。其の娘名を歓喜と云ふ。其夫を圓満具足と云い、千子の鬼王あり。各々數万の眷属を領す。而して、千子の中の最も稚なる子を摩尼跋陀と名け、其茲處には愛奴と言ふ。歓喜、常に愛奴を懐にし、千子を左右に連引して國中を横行し、人民の子を取り盡して食はしむ。依て、人民、大に之を憂へ、一同、佛の前に詣り、願して曰く「悪鬼、来りて、我等の子を取り盡さんとす。世尊、願くは、哀愍し、之を擁ひたまへ。」と。
佛、之を憐み、竊に神通力を以て、阿難を伴ひ、直に鬼の住所に到り、稚子愛奴を鉢の裏に蔵したまう。歓喜、愛奴の在らざるを知り、大に驚き身心、措くところなし。
遍く馳駆して之を覔むれとも得ず。是に於て霊山に詣り、佛に面奉して哭して曰く「世尊、我に千人の子あり。然れども其最も愛する子は稚子愛奴なり。然るを忽焉、其在所を失ひ、遍く覔れとも之を得ず。願くは、世尊の神通力を以て、其の在所を指教し玉へ。」と。聲を放って泣き悲しむ。佛、歓喜を喩して日く「汝、既に千人の子あり。然れ共、其一人を失ふすらも悲むこと斯の如し。然るに、汝、人民の子を取り食ふこと甚だ多し。人間、一代に五六七人、乃至、唯一人のみ産むものあり。其一人を取り食へば、汝が子、千人、悉く取り食はるるに同じ。汝、夫れ之を察せよ。」と。歓喜、頓に大に之を悟り、地に伏して佛に白して言さく。
「世尊、然らば、我が大罪、何を以てか消滅することを得ん。唯願くは、我等を哀愍し、悪業を消滅し、菩提を成ずることを得せしめたまへ。」と。
佛、歓喜に告て曰く「汝の大罪は妙法蓮華経に非ずんば消滅し難し。汝、今より悪心を翻へして一切衆生を擁護し、再び人間を悩すこと勿れ。」と。佛、自ら鉢の裏より稚子愛奴を出して歓喜に與へたまう。今、我か山に勧請し奉る霊像は、即ち是也。是、當に佛方等、般若法華経を説きたまう時也。茲に於て、歓喜を首として千人の鬼王、及び諸の眷属と倶に法華経を聴聞し、一心に合掌して、佛前に於て誓を立てしむ。
世尊、我か滅度の後に於て、若し我が呪に順はずして説法者を悩乱せば、頭、破れて七分に作ること、阿梨樹の枝の如くならんと誓ひたまう。
佛、曰く「善き哉、善き哉。汝等、但だ能く法華の名を受持せん者を擁護せんすら、福量るべからず。」何に况んや具足して受持し、供養せんものをや。
即ち、歓喜千人の鬼王、及び諸の眷属と倶に法華経を聴聞して、刹那の頃に菩提心を起して、千人の中の十人は智學秀れ、直に大善神となりたまふ。即ち、十羅刹女と申すは是なり。次に、五百人は天上に上り、後の四百九十人は須彌の四方に在まして、一切衆生を守護したまう。鬼門金神、三宝大荒神の類ひ、即ち、是れなり。
されば、如何なる大悪人も法華経に入りぬれば、必ず成佛すべし。然りと雖も、佛の所説にも、衆生の機に随ひ、不成佛の経を説きたまう。即ち、佛、成道以来、四十二年間の諸経には、舎利弗、迦葉、阿難等の賢聖すら、更に、成佛を許さず。佛、猶ほ譴て曰く「枯たる木に花咲き、破れたる石の再ひ合ふとも、焦たる種の生へるとも、永不成佛と嫌はれたるに不思議なる哉。法華経に来りて、舎利弗は華光如来、目連は多摩羅跋栴檀香如来、阿難は山海慧自在通王如来、三千界の人の壽命を奪ひし悪鬼も法華経擁護の鬼子母神となり、五逆の提婆も猶、天王如来となり、龍畜下賎の八歳の龍女も無垢如来となりたまう。されば、此法華経は信謗彼此十界成佛の大法也。」
加之妙法蓮華経如来壽量品には、是好良薬と説き、又、妙法蓮華経薬王菩薩本事品には、閻浮提人病此良薬と説きたまう。果して然らば、汝、遂に法華宗に改宗して、鬼子母神の威力と法華経の良薬とに賴りて、信心強盛に南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へて祈らば、汝が癩病、治せんこと、更に、疑ひなし。然りと雖も、法華経に曰ふ乃至不受余経一偈と説きたまう故に、唯、餘念なく南無妙法蓮華経とのみ唱へて、以て祈り奉るべしと。教訓、極めて懇切丁寧なりしかば、夫人、之を聞て、落涙、止まず。即ち、母君の言に随ひ祈誓したまう項は、正しく元禄十二年九月八日より、晝夜、懈らず、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と祈誓す。
然り而して、翌年四月に至り不思議なる哉。難治の癩病、盡く癒え、身体、原の如し。夫人、大に喜び、悌泣して曰く「偉なる哉。竒特、何を以て歟、斯の大恩を報じ奉らん哉。仰ぎ願くば、生神の御尊体を拝し奉り、以て之を来世に遺さんと誓ひたまう。」猶ほ齋戒断食し、不惜身命に祈誓すること三七日、乃ち、元禄十三年四月二十八日満願の暁、窓前、不思議の音聲、驚て、戸を開き見れば、生神鬼子母神、白雲に乗って、神色、凛然として明か也。左側に稚子、愛奴を連れ、微妙の御聲に呼んで曰く「善哉善哉。汝は不惜身命の行者也。必ず誓願空しくすること勿れ。」と。言ひ訖て、奄然として天上したまう。
誠に恭く惟るに、昔時、南禅寺の普門和尚、日天子の眞像を拝し奉りて、自ら之を書くと云う。然れ共、我は女身なるが故に、自ら書くこと能はずと、直に画工を招き、具に生神の眞像を語る。画工、筆を把つて書くに、更に、其當を得ず。茲に於て、夫人、意を決し、画工の筆を把り、両眼を閉ぢ、一心に之を書くに、生神の眞像に毫末も違ふ所なし。画工、之を視て、驚て曰く「是れ、人工の能くする所に非ず。確に何者かの所為ならん。倩々惟みるに、是れ全く鬼子母神の御親筆也。」と。嘆賞して已まざること良久し矣。不思議なる哉、竒なる哉。
一筆二十紙の上三紙に透り、上下を辨ずること能はず。即ち、世に一筆三紙の尊像と崇め奉るは之也。而して、上第一の尊像は、萩原夫人、終身、恭敬し奉りたる所なるに、夫人、没して後、空しく祭らざるのみならず、御供養、申上ぐる者すら非ざりしが、享保年中、中山の行者、學恕院日念上人、巡錫、其地に到りたるに、萩原氏遺族、具に上人に語り、且、其尊像を上人に示したり。上人、恭く之を拝し奉るに、実に世に類なき尊像なりしに依り、上人、是を切望して止まず。依て、萩原氏遺族は、上人の懇望を容れ、遂ひに尊像を贈呈す。時に享保八年四月八日なりき。其後、上人、越前の國、福井に到り、妙長寺に住す。上人、即ち、尊像を同寺に勧請し、萬世の護法神として神呪を銘記し、後世に傳ふ。時に享保九年十一月二十四日なり。爾来、年を閲すること二百有餘年、物遷り、星替ると雖、霊験顕著にして参拝の道俗、四時、群を為す。而も、孰れも、神徳を感應せざる者なし。崇む可し、尊む可し。仍ち、年々、正五九と称し、七八両祥日に限り、特に霊廟を開扉し、信者をして、尊像を拝せしむ。蓋し法華経の弘通依て、以て其旺盛を見る也矣。
然れ共、僻遠の地、親しく之を拝すること難きを遺憾とす。當山に勧請し奉る尊像は、今を距る四十余年前、不思議の御縁に依り、之を謹冩し奉りたる一身同體の尊き霊像也。機縁、既に熟す。参詣の善男善女、須らく渇仰の頭を垂れ、恭敬拝禮、信心強盛にして、現世安穏の御利益を受け、佛果菩提の妙果を遂げんことを祈り奉るべし矣。

感応生鬼子母神御縁起如件

維時昭和九年十一月五日

当山第三十三世
横田寛裕

恐懼謹識

感応 生鬼子母神のお話

感応(かんのう)生鬼子母神(しょうきしもじん)は、古い記録をたどる限り、もともとは武州(ぶしゅう)(武蔵国(むさしのくに)・現在の埼玉県、東京都、神奈川県川崎市と横浜市)の藤原清久(ふじわらきよひさ)の夫人が持っていた霊像です。

夫人は、ある朝、理由もなく、胸やおなかがとても痛くなる病気にかかってしまいました。家族は、それがとても普通の病気とは思えませんでした。思った通り、どんな医者や薬を試しても一向に良くなりませんでした。
そこで、いろいろな宗派のお坊さんを呼び、病気が治るようにご祈祷してもらいました。すると、全身の色が腐っているかのような色に変わり、顔の肉は落ち、濃い血がしたたり落ち、ますます病気はひどくなりました。そのおぞましい姿に、親戚は、みんな遠ざかってしまい、家臣も近づこうとはしませんでした。

唯一、夫人のお母さんだけは、とても心配して、夫人の側から離れませんでした。お母さんは、そのせいで目が病気になってしまい、そのうち目が見えなくなってしまったのです。
ある日、どうすれば病気が治るのか、占い師にみてもらうことにしました。すると、占い師は「法華宗(現在の日蓮宗)に鬼子母神という神様がいます。この神様に祈れば必ず治るでしょう。」と言いました。そこで、お母さんは、法華宗のお寺に行き、鬼子母神に病気が治るように祈りました。すると、祈り始めて17日目、不思議なことに、お母さんの目の病気が、うそのように治ったのです。

鬼子母神の力を実感したお母さんは、法華宗に改宗して、夫人に「私は、あなたの病気に驚いて、一日中、看病のため寝ずにいたら、目が病気にかかり、見えなくなってしまったの。でも、占い師の言う通り、鬼子母神にお祈りして17日目、お祈りが届いたのか、不思議なことに、突然、目の病気が治ったのよ。私の病気が治ったのだから、あなたの病気も必ず治るわ。だから、法華宗に改宗して、鬼子母神を強く信じて南無妙法蓮華経を唱えてお祈りすれば、あなたの病気も間違いなく治るはずだわ。」と。

それから、お母さんは「こんな話を聞いたのだけど。」と、鬼子母神の昔話を始めました。

はるか昔、中天竺(ちゅうてんじく)(古代インドの中央にあたる地域)に善見長者(ぜんけんちょうじゃ)がいました。その娘の名を歓喜(かんぎ)といい、その夫を円満具足(えんまんぐそく)といいました。そして、歓喜は1000人の子供(鬼王(おにおう))の母親でした
歓喜は、その1000人の中で一番幼い摩尼跋陀(まにばつだ)という子を愛奴(あいぬ)と呼び、いつも抱いて、千人の子供を左右に引き連れて国中を歩き回り、人の子をさらって食べていました。
これに思い悩んだ人々は、お釈迦様に会いに行き「悪い鬼がやってきて私たちの子をさらって食べてしまいます。仏様、どうか私たちを救ってください。」とお願いしました。
お釈迦様は、人々を気の毒に思い、神通力(じんづうりき)(超能力)を使って鬼の家に行き、愛奴を鉢の裏に隠しました。
愛奴がいないことに驚いた歓喜は、大慌てで、いたるところを探し回りますが、愛奴は見つかりません。困った歓喜は、お釈迦様のところに行き、大声で泣きながら「私には1000人の子供がいますが、一番愛している愛奴がいなくなってしまいました。すべて探したのですが見つかりません。どうか神通力で愛奴を見つけてください。」とお願いしました。
お釈迦様は歓喜に「あなたには1000人も子供がいるけれど、そのうちの1人がいなくなると悲しいでしょう。人間は5~7人、中には1人しか産まない人もいて、その1人をさらって食べるということは、あなたの1000人の子をすべて食べられるのと同じです。それをよく考えなさい。」と言いました。
歓喜は、とても反省し「なんとか今までの罪を消すことはできませんでしょうか。」と聞きました。
お釈迦様は「妙法蓮華経(法華経)でなければ消すことはできません。悪い心を改め、すべての人々を守り、二度と人間を悩ませるようなことをしてはいけません。」と言い、鉢の裏から愛奴を出して、歓喜に渡しました。

こうして改心した歓喜が鬼子母神となり、子どもを食べていた鬼王が十羅刹女(じゅうらせつにょ)になったように、妙法蓮華経を唱えれば、どんな大悪人でも、みんなが立派に成仏を遂げられるのです。

「やはり、あなたも法華宗に改宗して、鬼子母神の力と法華経を良い薬だと頼りにし、強く信じて、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱えて祈れば、病気が治るのは間違いないわ。」と、お母さんは話しました。

元禄12年(1699年)9月8日より、夫人は、昼か夜かも分からないほど夢中で南無妙法蓮華経を唱えました。

翌年4月、不思議なことに、治らないと思っていた病気が治り、体も元の通りに戻りました。夫人は涙を流して「なんということでしょう。この恩をどうやって、お返しすればよいのでしょうか。願いがかなうことなら、鬼子母神のご尊体を拝ませていただき、それを未来に残したいわ。」と、断食(だんじき)し、命を惜しまず、お祈りすること37日目、元禄13年(1700年)4月28日の早朝、窓の外で不思議な音がしたので、外へ出てみると、生神(しょうじん)(人間の形でこの世に現れた神)の鬼子母神が白い雲に乗り、左側に愛奴を連れて神々しく立っていたのです。鬼子母神は「よく祈りましたね、あなたのお祈りを無駄にすることはしません。」と言って、天に昇っていきました。

夫人は、その様子をなんとか残すべく、画家を呼んで描かせようとしましたが、うまくいきません。そこで、夫人は思い切って、自ら筆を握り、目を閉じて、一心に絵を描きました。その出来は完璧で、違うところは全くありませんでした。
夫人の絵を見た画家は「これは人の描けるものではありません。まるで、鬼子母神そのものが描いたように見えます。」と感動しました。

この絵は、夫人が生涯、大切にしましたが、夫人が亡くなってからは、まつられていないどころか、供養をしようという人すらいませんでした。

享保の時代、各地をめぐり歩いていた學恕院日念上人(がくじょいんにちねんしょうにん)というお坊さんが来たときに、夫人の遺族がお坊さんに「こういうことがありまして。」と話し、夫人の描いた絵を見せました。
お坊さんは「こんなにすごいものは他には見たことがないから、なんとか譲ってもらえませんか。」とお願いしました。享保8年(1723年)4月8日、夫人の遺族は、このお願いを受け入れ、絵をお坊さんに譲りました。

その後、享保9年(1724年)11月24日、お坊さんは福井県の妙長寺に住み、そこに絵をまつり、その縁起を未来に伝えました。

それから200数年たちますが、一年中、参拝する人が絶えません。そして、みんな、霊像の神徳を感応しています。毎年、正五九(1、5、9月)の7、8日の二日間だけ、霊像のまつってある仏壇の扉が開かれ、実際に拝むことができます。

そうは言っても、遠くの場所では、実際にこの鬼子母神を見るのは難しいことです。本光寺にある霊像は、今よ40数年前(明治27年頃)、不思議な縁でそれを写し描いた一身同体の霊像「感応生鬼子母神」です。

参拝する人はみんな、頭を下げ、強く信じて、平和のご利益を受け、病気が治ることをお祈りしましょう。

鬼子母神「感応 生鬼子母神」のご利益

本光寺の本堂に、「感応 生鬼子母神」が厨子に納められた状態で格護されています。筆で描かれた鬼形の鬼子母神の絵です。
本光寺古文書には、17日間、一心に南無妙法蓮華経を唱えてお祈りすれば、眼の病気が治ると記されています。200日間お祈りすれば、大きな病気も治ると記されています。
お開帳日は正五九(1月、5月、9月)の7日、8日になっております。この日に「感応 生鬼子母神」に参拝すれば、病気が治るご利益を得られ、縁起のいい日とされています。

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鬼子母神「感応 生鬼子母神」の参詣の仕方

お線香をつける前に、手水舎によって手や口を清めていただきます。 手水舎は「茶庭」と「きずな之湧水」の2箇所にございます。お好きな手水舎で身を清めてください。

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きずな之湧水の手水舎のご案内はこちら


手や口を清めた後に、お線香をつけて参拝します。

鬼子母神「感応 生鬼子母神」の参詣の仕方はこちら

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